既にこのブログをご覧になられていた方はお久しぶりです、初めましての方は初めまして、温泉卿と申します。
これまで、このブログは「狂気の弁明」シリーズの掲載のために利用してきましたが、今後は温泉卿個人の記事を「蠧虫蠢動」という枠で書いていこうと思っています。
当記事は、自身初の現地参加ライブであるTHE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS STARLIGHT STAGE 10th ANNIVERSARY TOUR Let’s AMUSEMENT!!! 東京公演の2日目を見て感じたことをそのまま書いていく備忘録に近い性質のものです。
現地参加以前
自分は一生現地に行くことはないだろうな…と思っていた。
現地に行っても空気に乗り切れないと感じていたからで、実際、何度かライブビューイングに参加したことはあるが、孤独感と無力感を噛みしめつつ帰路につくのが常だった。これは、ライブに光る棒、万年筆、メモ帳の三点セットを持ち込むという僕の癖が明確に悪い。万年筆とメモ帳はライブ中に気になったことを書き込むために持ち歩いている。なぜなら、ライブから最大限情報を引き出すにはこうでもしないとダメなのだ。人間の記憶力は驚くほど貧弱で、特にライブではついさっきのことも忘れてしまう。これを避けるためにメモをするのだが、だんだん観ることより書くことを優先してしまうようになる。記憶より記録の方が強靭で意味があるという思想が自分にあるからなのだが、悲しいことに体験は記憶の方にしかついてこない。
こうなるともう終わりで、ライブに参加できなかった虚しさと、解読できない文字を抱えて無力に帰宅するしかなくなる。
このようなことを2度も3度も続けていると、自分は絶望的にライブというものに向いていない人間なんじゃないかと思い始め、いつしか強固な思い込みになる。これで冒頭の一生現地いかない人間の完成である。
今回はそんな人間が様々な偶然によりデレマスのライブに現地参加した感想を書く。
前日~当日開演前
前日夜、突然落ち着かなくなり、無駄に駅から徒歩で帰宅する。前々日まで全く実感がなかったのが嘘のよう。明日、自分に革命(註:トマス・クーン的な意味での)がくるかもしれないと思い始め、事前に友人に伝えてあった言動変化予測を再検討しはじめる等の異常行動が散見されるように。
Day1のセトリが発表され、自分でもついていけるかも…と喜びはじめる(註:筆者がデレステを'しっかり'やっていたのは2016-2019)、直後老人会すぎて新参の方々がついてこれるのか心配になる。とにかく情緒不安定。セトリから花簪か薄紅かは来ると判断し嬉しくなる。
なぜかぐっすり寝、連番者と合流し有明へ向かう。昼飯にカレーをチョイスしたせいで腹具合がおかしい、どうやらライブ前にカレーはよくないらしい。
有明アリーナ着、プロデューサーさんたちに勝手に気圧され、人酔いする。やはりフルグラ法被と近代欧州陸軍の目立つ制服は同じ機能があるに違いない(註:威圧と士気向上)、などと益体もないことを考える。そういえば5thSSAday1の時も大宮とさいたま新都心の間で新田さんの特攻服着たPとすれ違ったなと思いだす。あの時はなぜか緊張を感じたような気がする。5thSSAで終演ダッシュの次くらいに記憶に残る瞬間だった。
入場、アリーナ最前列の車椅子スペース仮設席をツモる。運がよく、ステージは下手最端以外すべて見えるがちょっと遠めという塩梅。結果的にこの遠さに感謝することになる。
ライブ本編
ひとまずいつも通り万年筆を握り、千川さんのお言葉を聞く。「プロデューサーとファンの皆さん」って言った!「皆さん」は「ファン」だけを修飾するのか?それとも「ファン」「プロデューサー」の両者を修飾するのか?前者だとすれば千川さんには何が見えているのだろうか?リヴァイアサン的なプロデューサー?ここまで思考が進み、とりあえずメモに「プロデューサーとファンの皆様←?」と書き、いったん置く。ちなみに二度と万年筆を触ることはなかった。光る棒とペンとメモ帳をお手玉せずに済む。
演者さんが舞台に上がり始めると途端にどこを見ていいのかわからなくなる。舞台上と3つの大型ディスプレイがあり、目が3対欲しい。サイボーグ技術の進展に期待したい。
やはり人間は自然を征服し、完全に統御するために'進化'すべきなのだ
以下、個人的に記憶が残存している曲を挙げる。
(僕の脳は揮発性メモリのため、供給が絶たれるとすごい勢いで忘れてしまうのだ…)
□満願成就♪巫女の神頼み!
スポットライトがついたぞ…と思ったらバナナの皮が照らされていて笑ってしまった。このあたりで観察を完全に放棄した覚えがある。
□花簪 HANAKANZASHI
やっと回収できたという安堵感がなぜか湧き上がった。どこ由来の感情かいまだに謎。感情に同位体トレーサーを添加したい気持ちである。
□き・ま・ぐ・れ☆Cafe au Lait!
実家のような安心感があった。なんでだろう…
おそらくMVを見まくったからではないかと思う(某合作の影響のはず)
□楽園
目の間にいた関さんのPが崩れ落ちていた。こういう人、本当に実在するんだ!という表情をしてしまったかもしれない。
□読んで!甘辛script
大坪さんが衣装からマカロンを取り出してパクつく様に、デレマスってこうだよなぁの感情になった。声優さんが舞台上で物を食うことに慣らされてしまっていることに気がつく。これがメンタリズム…?
□ノートの中のテラリウム
かなり気持ちよくなってしまった。本当に気持ちよくなったのでCDを買った。
気持ちよくなりすぎて舞台上でなにがあったのかの記憶はない。
□クレイジークレイジー
ダッチアングルの曲、かなり好きなので単純にうれしかった(語彙力)。
□14平米にスーベニア
ノートの中のテラリウムと同文。もしかして僕は久川凪さん歌唱の曲が刺さるタイプなのかと疑い始める。
□華蕾夢ミル狂詩曲~魂ノ導~
うわ来たすげぇやという気持ちであった。僕が観測できた中では一番Pが舞台装置になっていた曲だったと思う。
□Hotel Moonside
この曲は現地で聞くのが一番美味しいと気が付く。もうCD音源だとなんか物足りなくなってしまった。そして飯田さんがすごかった…役作りがものすごいお人なんだな…
□きゅん・きゅん・まっくす
低音が足りすぎていた。「かわいいってなんだー!」に深くうなづく。かわいい論、文献を漁ってみてもいいかもしれない。サブカル文化論の方向か?
□Absolute Nine
Day1でやってたからな…と思っていたら不意打ちを食らった。最大懐かし感情はこの曲で記録した気がする。
□バベル
前半は録音、後半から飯田さんの登場ということで、飯田さん登場時の会場のボルテージがやばかった。この辺のラッシュでだいぶ記憶を持ってかれる。
□凸凹スピードスター
とんでもないものを見てしまった感。このメンバーは予想外過ぎる。
□美に入り彩を穿つ
やっと聞けた…としみじみしてしまった。ここでP諸賢が言うところの”降りる”だとか”いる”とかいう感覚を(おそらく)理解した。席が遠く演者さんの顔立ちの判別がつかないことが逆に功を奏し、立花さんの顔部分に小早川さんの3Dモデルが視えた。なるほど、eidolonは人が見るということ(oida)に依って知られるとはこういうことなのか?近いものを挙げるならAIコラージュ動画。幻覚を自覚しながら幻覚を見るといういい体験ができた。みんなこれをいってたんだなぁ~
□純情Midnight伝説
コールが強い。体力を搾り取ってくる。だいぶヘロヘロ。
□Tulip
あ…きた...きたぞという感じ。ペンライトを柵にたたきつけるという愚行を犯す。もうこの辺は脳みそがあまり稼働していない。
□スターライトステージ □お願い!シンデレラ
立花さんのファンサがすごい。ほんとうにすごい。
どうやら立花さんは大量報復戦略を採用しているらしい。
めちゃめちゃ跳ねていて体力に尊敬を覚える。ここでP諸賢が言うところの”(合ってないけど)目が合った”という感覚を(おそらく)理解した。
人間の感覚器官って愚かですね…刺激と感覚を区別できる人間になりたいですね。無理ですけど…
ともあれ、バンダイナムコは直ちに第1次ファンサ削減条約(FSERT 1)の批准を立花氏に勧告すべきだと考える。ファンサは大量破壊兵器だったんだ。
総評
プロデューサーではないが、ファンではある、かも
事前に友人たちからはメモ帳を放棄できるかがカギだと言われていたが、見事にしょっぱなで放棄することになった。光る棒、万年筆、メモ帳という三位一体お手玉から脱出できたことは素直に喜ばしいような気がする。少なくとも寂寥感は感じなかったわけだし。とはいえわからないことを噛み締めて帰るのも悪くはないが…
ともかく、現地は参加者に傍観者であることを許さないらしい。あれだけボコボコにされると、すみませんやっぱファンでしたという気持ちにさせられるものである。
でもプロデューサーではないですよ自分は。
プロデューサーの言っていることがわかった、かもしれない
先述したが、プロデューサー達が言う「(キャラクターが)降りてきた」や「(見てないが)こっちを見た」といった体験を自分もできたように思う。それが何か?と思われるかもしれないが、自身にとってはかなり重要な経験だった。
というのも、私がアイマスそのものを理解したいと思うようになったのは、「ライブにおいて声優とキャラクターを同一視するような認識は、どのようなプロセスで起きているのだろうか」という疑問がきっかけなのだ。(註:これに対する仮説は、アイマス学会in北九州での発表の一部に組み込んだ)これまでは報告された現象に対して考えるという引いた立場にいたが、ついに自分も体験することができたという喜びがあった。疑問が主体的になったといえばいいのだろうか。
また、プロデューサーのアイマス観をマッピングしたいと望む者にとって、プロデューサー諸賢の持つ経験を自分も持ち得たことは、非常に喜ばしい。これまで、様々な背景を持ち、多様な思想を持つプロデューサーと話す機会を得たが、どうもライブ時の経験だけは腑に落ちないという感覚があった。しかし、今回の体験で、彼ら/彼女らの語りがスッと腑に落ちてきた感じがする。
アイドルは偶像であるだけでなく、イコンでもあるかもしれない
これまで、アイドルは字義通り偶像であると思っていた。しかし、実はイコンの性質も持っているのではないかと疑い始めている。
突然なにを言っているんだと思われるかもしれないが、これは(個人的に)結構重要な問題なのである。なぜなら偶像とイコンには明確な差異があるからだ。これは人間の手によって作られているかどうかというような形質的特徴の差異ではなく、そもそものあり方が異なるとされている。端的に言ってしまえば、偶像は“鏡”であり、イコンは“窓”であると言って差し支えなかろう。流石に意味不明だと思うので、もう少し紐解くと、偶像は「まなざしが偶像を作り出す」もの、つまり自分が見ようとしているものを見せるものである。言い換えれば、本来人間に理解することのできない神秘を、理解できる範囲だけに区切って下ろしてきたものであるとも言える。神秘を目指したまなざしは、偶像によって止められてしまう。偶像は、あくまで人間しか見せてはくれないのである。一方、イコンは「イコンによってまなざされる」と考えられている。イコンは見られるのではなく、見返してくるのである。見えないはずの神秘を見えないまま見せてくるもの、これがイコンであるらしい。らしいといったのは、これが僕にとって理解しかねるが納得できる表現であるからだ。これらの特徴は、イコンは神秘への窓であると表現しても大きく間違ってはいないだろうと思わせる。実際、正教会のイコンの壁(イコノスタシス)は、実世界と聖なる世界を別ける壁であり、同時に実世界と聖なる世界を接続する窓でもあるらしいのだから。
さて、そろそろアイマスの話に戻ろう。先述の通り、アイマスアイドルは偶像であると考えていた。今も偶像ではあると思っている。これは、経験としてアイマスアイドルは鏡のふるまいをすると感じていたからなのだが、今回窓でもあるのではないかという不定形の確信を抱いた。彼女らを通して、なにか別世界のものを見せられたような気がしてならないのだ。見えないものを見させられたような心持ちでいる。見えないものは語りえないだろうから、気がする以上のことを言えないが…
偶像であり、イコンである、そのようなものが果たしてあるのだろうか。
まだ具体的にどうこう解釈できるような段階ではないし、あるいは単なる錯覚かもしれないが、念のため書き残しておく。
凡庸な感想だが、現地に行かないとわからないことは多い
今回現地にいくまでは、現地とライブビューイングに大きな質的差異はないと考えていた。ライブビューイングでもコールはあるし、単に実像か投影像かという、ただそれだけの差異が現地とライブビューイングを区分すると思っていた。しかし、ライブビューイングだけでライブを語るのは片手落ちもいいとこであった。ライブに限っては、カメラは重要な情報を取りこぼしてしまうらしい。真髄はカメラで切り取ることのできない部分にあったのだ。
ドキュメンタリー映画の先駆者であるジガ・ヴェルトフは、カメラは人間の眼を拡張し、眼球の限界を超えて世界をより深くとらえることができると考えていた。彼はその思想に映画眼(キノグラース)と名付け、眼球、あるいはそれの劣化版としてのレンズではなく、眼球の改良版としてのそれを追求した。帝政ロシアの末期からソ連初期までの、人間と科学に対する無限の期待感を持っていた時代背景もあったのだろうが、ヴェルトフは科学技術と人間の拡張性を信じていた。カメラは我々に見ることのできない世界を見せるものだと確信していたのだ。しかし、ことこのようなライブにおいてはそうではなかった。かえってカメラは人間の知覚を狭める枷になってしまった。人間はカメラを使いこなすことで目という知覚器官を拡張したように思われたが、それと同時に無限に広がっていた認知の可能性を狭めてしまったのではないだろうか。
キノグラースは"真実"をまなざす。しかし、"真実"を視ることだけが重要なのだろうか。そういうことを考えさせられた。
(で、ライブの感想ってこういうのでいいんですかね?わからないわ)
