頓痴気号漂流記

一人で工廠を名乗る不届き者。

狂気の弁明#10(後編)

学会発表者の狂気に迫るインタビュー、第十回は北九州に送り込まれた幽谷霧子学会の刺客、katariyaさんに来ていただきました。
Twitter:@katariya
ブログ:https://katariya0116.hatenablog.com/entry/2019/12/22/171206

本記事は前回記事の後編となります。katariyaさんに私的P観を伺っていきます。

 

・私的P観

―なるほど、ありがとうございます。では次に私的P観の方に入って行きたいんですけれども、katariyaさんにとってアイマスっていうものをどういう風に認識しているのかっていうのちょっと掘り下げて聞いていきたいんですよ。まずアイドルマスターというコンテンツをどう捉えていらっしゃいますか。これちょっと抽象的な質問で申し訳ないんですけど...

そうですね...僕の中でアイドルマスターっていうコンテンツは、いろんな言い方があるとは思うんですけど、意志のコンテンツだと思っていて、この意志っていうのが結構また抽象的ではあるとは思うんですけども。「アイドルマスターは他のアイドルコンテンツと何が違うんだろう」と言う風に考えた時に、1つはトップアイドルっていうものを念頭に置いているっていうところが最も大きな違いかなというふうに考えていて。これは一つの概念なんですけど、アイドルコンテンツにおいてそのアイドルが自己実現をするっていう過程がドラマツルギーであるって言うのがまあ大枠であるかなと思っていて。じゃあその終着点はどこなのって言った時にアイドルマスターはトップアイドルっていう言葉を置いてると。でもこのトップアイドルっていうものを誰も見た者はいないっていうところがこの物語の肝になるんですよね。ただ、これに関しては今は少し変わっているかもしれない。特にデレとかミリオンとか所謂ソシャゲから始まったアイドルマスターは終わりがないのでトップアイドルというものが出てこないんです。
―あー確かにそうですね。

勿論ある程度ランクとかレベルが上がってここまで行きましたっていうのは出てきたりとかしますよね。ミリ、グリーの頃のミリオンとかでもある程度ここまででかくなりましたよっていうの出てきたりとかするんですけど、終着地点としてのトップアイドルっていうのはなかなか描けないところではあって、でもアイドルマスターっていうコンテンツにおいてアイドルは誰しもたった一人のトップアイドルになりたがるっていう何とも言えないこの不可思議な関係性がある。じゃあこのトップアイドルっていうのがアイドルマスターだとしたらばトップアイドルってどういう概念なのっていうところがあるんですよね。でそれが結局各アイドルの意志、こうなりたいとかああなりたいとかこうしたいって言うその欲望の塊がトップアイドルっていうものの正体なんではないかという。逆に言うとそれが核にある、自分というものが核にあるっていうところがアイドルにとっての資質になるって言うのがこの重要なところなんじゃないっていうのが僕のアイドルマスター観なんですね。
なるほど。興味深いです。

だからまあアイドルマスターっていうのはそういう意味では意志とか欲望とか夢とか色々言い方はあると思うんですけど、僕は意志のコンテンツだっていう風に思ってます。

―ちょっと待ってくださいね、咀嚼に時間をください...えっと、そうですね後は何でしょうその最初の方であのアケマスから入られたって言うお話をされていたじゃないですか、アケマスから入ったからこそこういう思想になったぞみたいなものって自己の中にあったりしますか。

これ言うと古参アピールみたいになるのでなかなか言いづらいところがちょっとあるんですけど...アイドルマスターってゲームであると同時に声優コンテンツでもあるんですよ。一番草分け的な存在ですよね。で、ライブとかを見出して、僕も最初は声優が出てるライブなんてって言う風に思ってた節があったんですよね。結局その後行くようになったんですが。でもやっぱりそのライブに行くようになった時に声優っていうものが、何なんだろう、この声優がその役と完全に重なる瞬間ってどっかであるんですよやっぱり。僕は如月千早のPなんで今井麻美って言う声優さんを見てはいるんですけどそのアイドルマスターのライブで。やっぱりなんかちょっと狂気なんですね。あの瞬間っていうのはその瞬間にリアルタイムで立ち会えたからこそ言えるのはコレは役者に背負わせるべきものなのかっていう迷いもちょっと出るんですよやっぱり。だってそれ人生かけてくださいって言ってるようなもんなんである意味で。
―そうですね。
でもなんかその人生を賭けている役者ってめちゃくちゃかっこいいしめちゃくちゃ見てて楽しいっていう部分があって、やっぱりそこを見続けられたっていうのはアイドルマスターを追っかけてて良かったなっていうふうに思う瞬間ですよね。その役を背負って立ってその役に対して100%の演技って言うんじゃなくて、何かしらの降りてくるっていう感覚が見れる瞬間がやっぱり一番ゾクッとする瞬間で楽しいなっていう風に思ったっていうのはありますね。あとはもうあれですねあの総選挙の展開ASでやったから大丈夫やでって言う(笑)。だからこの展開でどうなんだ、この後どうなってしまうんだみたいなことを不安に思う人結構いるんですけど、例えばミリシタから入った人でどういう風になるのかとかSideMアニメ化した時どうなるのかとか色々その節目節目のこれどうなっちゃうの今後みたいな不安感が出る時ってあるじゃないですか。

―はい。
コンテンツ追っかけてると。でもなんかそれってAS通ってきたから大丈夫だよっていうのは一つ、なんでしょうね経験だなという風に思います。

―先ほど声優さんとキャラクターの話が出てきたじゃないですか、ライブ時の。かなりセンシティブな話まで突っ込んでいく感じになってしまって申し訳ないんですけど、そのキャラクターというのは何でしょう?キャラクターというものと声優さんというものがオーバーラップする瞬間っていうのがどっかにあるはずで、そういう時ってキャラクターが現世に舞い降りたみたいな発想しがちじゃないですか。正確な言葉を使おうとするほどどつぼに嵌っていくんですけども、ざっくり哲学的なあれこれ全て放置して言うのならば存在するかしないかって話なんだと思います。その辺をどう考えていらっしゃるのでしょうか。

1つアイドルマスターの怖いところでもあり多分これがあったから15年続いたんだなっていうところがあって。昔坂上プロデューサーが言ってたんですけど、アイドルマスターを日常にするっていうのはこのコンテンツの一つの目的なんですよ。それってどういうことかというと、ゲーム単体で終わるのってある種作品が完結してるんでそれはとても大事なことなんですよ。だからそのゲームが面白かったって言っとけばゲームはおしまいっていうふうにおけるって結構、ただそこで物語が終わってしまうんですよね。でもアイドルマスターてもうやってるとみんな分かると思うんですけどなんか日常に侵食してくるじゃないですか。
―しますね。

何となくアイドルのこと考えているとか、この間オモコロの恐山さんが「顕」っていう風に言ってたんですけど、僕は「ハーブを焚く」っていうんですけど、要はアイドルの幻覚を見だすんですよねみんな何となく。それってたぶんアイドルマスターだけなんだろうなっていうとこもちょっとあったりとかしてこんな怖いコンテンツはっていうところはあるんですけど。それってなんでそこを目指したのって言うと勿論継続的なコンテンツ継続っていう部分も勿論あるんですけどゲームっていう物、所謂二次元だったりとか架空の物語っていうものが日常に対して漏れ出る感覚っていうのは、ある種のオタクの夢であるというところがあると思っていて。
―そうですね

要は二次元の向こう側に行きたいっていう人はいっぱいいるんですけど、二次元がこっちに漏れ出してくるっていうこともありうるんだっていうところって結構重要だなと思ってて。でライブがなぜあんなに面白いのかって言うとその二次元が漏れ出てくる瞬間があるから面白いんじゃないかっていうふうに思うんですが、その二次元が漏れ出てくる瞬間っていうのが声優さんが、要はアーティストじゃないんですよ。彼女達は別に自分を見せたくてあそこに立っているわけじゃなくて役を見せたくってあそこに立っているんですよ。役を見せたい人たちが役を下ろして現実に対してそういう二次元的な存在っていうものを漏れ出でさせる瞬間っていうのが何より旨味なんじゃないのっていうのが大事なのかなと。だからそこが求めてるじゃないけども何かその瞬間が一番コンテンツが世界を、リアルを覆って混ざりあうのが一番見てて楽しい瞬間だよねっていう。
―面白い現象ですよね。

瞬間かなと思いますね。

―先ほど幻覚のお話をされていたじゃないですか。katariyaさん自身がその幻覚とどういう距離感でお付き合いされているのかっていうのをちょっと伺いたいんですけど。
何でしょうね。突然見えるときがあるかなみたいな感覚(笑)。
―(笑)プロデューサーさんとしてのkatariyaさんっていうのは、それはあちら側にいるんですかねこちら側にいるんでしょうかね。

多分僕はこっち側にいるんですけどこっち側にいて向こう側の景色が見えるっていう瞬間はあって、例えば島村卯月がいるじゃないですか。島村卯月っていうやつがいて島村卯月のクラスメイトで結構引っ込み思案で他に友達がいないんだけど島村卯月だけがなんか自分に話しかけてくれてたっていうのがいて、でそのモブ、あえてモブっていいますが、卯月と電話とかで話していて私の友達だっていう風に認識してたんだけど向こうがアイドルで忙しくなってライブとかで全然学校に来なくなって自分がまた一人ぼっちになってしまった時に島村卯月というアイドルに対して何かどういう感情をこのモブは抱くんだろうっていうのって、まあ幻覚じゃないですか(笑)。
―(笑)まあそうですね、幻覚ではあります。
というのが日常で見えてくるっていうかんじですね、感覚的には。その世界にいる人たちとか何となくこういう人いるだろうなーっていうのを見てはお話をするっていう。こういうこの幻覚の見え方が「ハーブを焚く」っていってるんですけど僕の場合。また「ハーブが焚」かれたってだけSNSに書いて、よくわからないけどその幻覚に共感する人がみんな共同幻想を見てるなと思いながらポチポチ見てたっていうことは...

ーそういう物を言語化するってことは恐怖を覚える行動ではあるんですけど、というのはどうしても言語化する過程でいろんなものをそぎ落としてしまうので。それを恐れずあえていうならば、アイマスの世界と現実世界はおそらく分離しているんだけど壁に穴が開いてて漏れ出してくるみたいな。

部分的には見えてるしなんならアイドルマスターってやっぱりリアルな世界観なんで。あの世界ロボットとかがたまに出るんですけど(笑)結局どんだけアイドルが死んだりとかなんか戦ったりとかしてもその劇中劇ですっていう形の線引きはされてるじゃないですか。例えばコンビニにいる時とか例えば料理を食ってる時とか例えば教室、大学生だったりとか高校生だったりとかが教室にいて勉強してる時とかで、そこに多分アイドルって重ねられるんですよね。だから多分あの子は窓際にいるこの子は昼飯でタコさんウィンナーが入ってるお弁当を食べてるとかで多分自分がいる日常の中でふと見えるし景色の中にいるんですよね。だからその重なった瞬間っていうのを捉えて言語化するっていう感覚の方が僕の中では近いかなっていう感じですね。
―なるほど、わかりました。ありがとうございます。ちょっと話が変わってしまうのですが、幽谷さんをはじめとしたアイマスアイドルって、デカルト物心二元論の枠では語ることのできないモノだと思うんですよ。個人的には、彼ら彼女らはモノにもココロにもなりうる、つまり情報だと思っているのですが、katariyaさんはどう捉えられていますか?

その点に関しては、現代において物心二元論というのは古い理論で身体は精神に引っ張られるし精神は肉体に支配される瞬間があるんですよね。さらにいうと現代においてサイバーパンクやSF的な作品において「モノを持たない精神」という概念が現れた。これらは俗にAIとか呼ばれるものですね。こういったところからモノと精神というものが対立するものではなく、精神とモノが相互に作用するし、なんなら僕らは脳という電気信号で「精神」を作り出してない?というところまで来ているわけです。だから、この場合における電気信号を「情報」と置き換えるのであれば、2次元のキャラクターというモノはすべてある種の「情報」ですし、そういった意味で二元論に当てはまらない存在、といえるかもしれません。

―そういったアイマスアイドルがデカルトの連続性を担保するというのは、一種の皮肉じみたものを感じるのですが…

そうですね。ただそれ自体はデカルトにとっては「救い」だったのかなとも思えます。彼は決して「神」を否定していたわけではなかったのは前回も語りましたが、SF作品において僕たちはAIが神様となる作品をいくつか知っているのではないでしょうか?例えば「パラノイア」、例えば「2001年宇宙の旅」。彼らAIが人間に対してある種の神として機能するところを思考実験において僕たちは見ている。それが救いとなるところも。だからこそ、霧子が「救い」になることは彼にとって自分のひとつ理論が否定されたことよりもより大きな「信仰」の顕現として救いになるのかなと思います。

―お聞きするのを失念していたのですが、デカルトに目を付けた理由ってありますか?

そもそものきっかけは「ローゼンメイデン」ってアニメなんですよね。あれってお父様って言われる人形の子たちを作った存在が示唆されるんですけどこのお父様が「お偉い哲学者の先生」って呼ばれているところがあって、それの元ネタがデカルトなんですよね。デカルトには愛娘のフランシーヌに似せた人形を持ち歩いていたっていう伝説があって、そこから上記の話に繋げたとおもうんですけど、まあ何故デカルトがそうしたんだろうか?っていうのが気になっていろいろ調べるうちに書籍を読んでいったというのが始まりですね。まあそのあと本当は人形なんて持ち歩いてないし、その伝説自体が後世の作り話だったというオチもつくんですが。

 

―(Lotus)アイドルマスター観について「トップアイドルを目指す意志」のお話を伺いましたが、個人的にアイマスは「トップを」「みんなで」目指してアイドル活動をする作品だと考えていたんです。katariyaさんにとってアイドルマスターに占める「みんなで、力を合わせて」の割合はどれほどでしょうか。

僕の中では7:3で3の方が「みんなで、力を合わせて」だと思ってます。というかそういうコンテンツであってほしいという所があります。もちろん仲が良い瞬間というのはとても素敵なモノですし見ていてほほえましくあります。しかし、現代的な価値観によるのであればアイドルの本質は「闘争」であると思っていて、その闘争というのは「自らの意志を貫くための世界との闘争」という感覚が僕の中にあるからです。そして、生きる上で「自らの意志」というものは他者の「意志」と必ず衝突します。その時に「みんなで、力を合わせて」というのは決して「争わず」という言葉が入るわけではなく「時に争い、時に助け合うから」こそ「個の力を合わせる」ことが出来る、というのが「アイドルの物語」の一つの魅力だと思っているからです。

―なるほど。あくまで闘う事が前提、と言った感じなのでしょうか。これは先ほどあったアケマスから入った影響などがあるのでしょうか。

そうですね。自分の中でリアルのアイドルで「モーニング娘。」が好きだった時があって、そもそもその最初のメンツって「オーディション」の選抜に落ちた人間を集めて出来たモノだったんですよね。だから自分の中でアイドルというものに関しては「選ばれることである」というのが先にあったというのも大きいです。おそらく「みんなで、力を合わせて」というところは自分の中で言うとアニマスの頃からファンやコンテンツの方向性に感じてた部分ですね。でも、それでも最終話付近で春香と皆は構造的に対立しますし、映画の中においても「それぞれがそれぞれの考えを持った上で」という前提を描いた上であの最後の結論に至っています。だからこそ、アイマスの意志というのはそこでも意識された作りをしていたなと言うのは思います。また、ある意味でさらに「闘争」をより先鋭化した形なのがのちに続くシンデレラガールズであった、というのも当時としては感じていました。

―ありがとうございます。最後に、これは個人的な興味の質問で今後インタビュー毎に訊こうと思っている質問なのですが、アイドルはアイマスから独立して思考すると思いますか?

これは少なくとも、コンテンツの終わりが現代においてどこになるのか、という問題があります。昨今において運営側がコンテンツを閉じたとしてもそのコンテンツそれ自体が終わらないことがあります。何故ならユーザー自身がそのコンテンツに対して創作をし続ける場合もあるし、その創作活動が共同体となって細々と運営され続けることもある。さらにはそれによってリメイクなんかもされたりする。ある瞬間「アイマス」というコンテンツが「終わった」と認識しても、そういった共同体やコミュニティが残り続ける限り、その中で「アイドル」は生き続けると見ることもできる。その形が独立しているのか?と問われると曖昧ではありますが、少なくともその形になって残った時には運営という「アイマス」からは切り離し、独立してその中で生き続けるという見方は出来ると思います。



編集後記

二回に分けてお送りしてきましたkatariyaさん回。バックボーンがこんなに違うにも関わらず導かれる結論に共感出来るのかと驚きました。これは収斂進化によるものなのか、それともアイマスが本来持つ普遍的特性の表出なのか。今後のP学の発展が期待されます。

次回は未定です。アイマス学会FESTIV@L後に#狂気の弁明でお知らせします。

 

 

(文責:Lotus)

 

 

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